【6月22日(月)2日目】
朝8時出発、全行程6時間かかる
アウシュビッツ強制収容所見学のツアーに参加しました。
オシフィエンチムまではバスで1時間半。
現地に着くと英語のガイドが付いてくれ、グループになって見学します。
まずは第一アウシュビッツと呼ばれる基幹収容所から。
建物の中は撮影禁止だったため、概観のみの写真です。
写真で見ることが多い、アウシュビッツのゲート。
ARBEIT MACHT FREI 「働けば自由になる」
3文字目の「B」が上下さかさまになっているのは、これを作らされた者のせめてもの抵抗と考えられています。
ゲートをくぐるとすぐ右にある建物。
この前で楽団が演奏していた様子が写真に残っています。
何も分からずに連行されて来た人々へのカモフラージュだったのでしょう。
左右に並ぶ収容棟。
11号棟は「死のブロック」と呼ばれ、臨時裁判が行われました。
地下には食べ物飲み物を断たれる飢餓室、座ることの出来ないごく狭いスペースで衰弱させる立ち牢などがあります。
家族がある者の身代わりになって亡くなったコルベ神父を聞いたことがありますが、ここで命を落としたそうです。
10号棟と11号棟の間にある「死の壁」。
銃殺に使われました。
その様子が分からないよう、10号棟の窓は黒い板で塞がれています。
「大きな音が出ないよう、小さい銃が使われた」とガイドさんが話していました。
続いて入った「犯罪の照明」という棟には、収容者から没収したおびただしい数の靴、帰れるときのことを考えて自分たちの住所を大きく書き綴ったカバン、義足などが積まれていました。
ガラスケースいっぱいの女性の髪の毛、そしてそれから作られた毛布もありました。
ドイツの敗北が濃厚になり、証拠隠滅のためかガス室などの施設はほとんどドイツ兵によって壊されました。
第一アウシュビッツに残るガス室は、戦後復元されたものです。
もともとはポーランド軍の武器庫として使われていた場所でした。
「サイクロンB」という毒ガスを使って、ここで大量の人が殺されました。
ガイドさんは説明の中で
「収容所で殺されたのはユダヤ人だけではない」という点を繰り返していました。
ポーランド人の政治犯や、ソ連の捕虜、ジプシーなど、実に28にも及ぶ民族が殺されました。
現在では犠牲者の数は150万人と言われていますが、正確な数は分かりません。
ここに連れて来られた人々は、到着するや否や一列に並ばされ、労働に耐えないと判断された時点で記録も取られずにガス室に送られていったからです。
また、「なぜこれほど多くの収容者がいたのに抵抗出来なかったのか?」という質問を受けたガイドさんは、
「収容者の中から選ばれたスーパーバイザーが、それ以外の収容者を監視していたから」
と答えていました。
スーパーバイザーたちはその他大勢よりも良い食事を与えられたり、良い部屋を与えられていました。
***
続いてバスに乗って、2km離れた第二アウシュビッツ・ビルケナウに向いました。
ガイドブックによれば敷地面積1.4km、300棟以上のバラックが立ち並んでいたといいます。
映画『シンドラーのリスト』にも使われた「死の門」の上の見張り塔は、実際に上ってみることができます。
広大な土地の左右にバラックが広がっています。
左が女性棟、右が男性棟と説明されたと記憶しています。
私たちは見る時間がありませんでしたが、この線路の一番向こうに国際慰霊碑があるそうです。
映画などで印象的な列車の引込み線は、比較的後半に作られたものだとのことでした。
木造のバラック。
そのバラックの内部。
3段ベッドに寝返りも打てないくらいギッシリと人が寝させられます。
飢餓のために下痢をする人が大勢いましたが、トイレは朝晩2回のごく短時間のみ。
必然的に垂れ流しになり、下の段の人は汚物をかぶることになりました。
まだ息のある人の肉をネズミがかじったり、飢えのために人が人を食べることもあったとガイドさんは言っていました。
地獄です。
***
確かに、旦那さんの言うとおり、機会があればこの場所を自分の目で見ることは大切なことかもしれません。
でも、私が一番印象的だったのは、見学を終えてバスに戻ると、めいめい昼食を広げ、歓談を始めたことでした。
それは私自身も同じでした。
結局、私たちはここで起きたことを実体験としては感じることは出来ないのだと思いました。
だからこそ、事実を後生に語り継いでいかなければならないのです。
つづく